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日本海軍 一等戦艦 三笠
1902年 イギリス ビッカース社/バーロー・イン・ファーネス造船所生まれ。



六・六艦隊計画により計画された、敷島型戦艦の四番艦。
1903年12月28日、連合艦隊旗艦となり、翌年より日露戦争に参加。
1904年8月10日の黄海海戦の後、1905年5月27〜28日対馬沖にて、ロシアバルチック艦隊と交戦、これを撃退する。
その後、ワシントン条約により廃艦の指定となるも、その栄光をたたえ除籍後、横須賀にて記念艦として保存されることになる。

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しかし、それから約20年後、太平洋戦争終戦を迎えた三笠には、かつての面影は無かった。
彼女を守るべき国は破れ、管理すべき米軍は、その使命を放棄していた。(同じ戦勝国であるロシアへの配慮もあったといわれる。)
結果、彼女の体は略奪の限りを尽くされた。
めぼしい物は盗まれ、貴金属はバーナーを使って切り取られた。 砲も奪われ、マストも奪われ、艦橋すらなく、船としての形をとどめる物は全くなくなった。
そして残った船体は、米兵相手の歓楽施設へと改装させられた。 かつて東郷平八郎が使い陣中に赴いた長官室へ、敵国兵士が娯楽のために訪れるのを受け入れ、 痴態にふけり傍若無人に振舞う姿を、 彼女はただただ黙って、絶えねばならなかった。
20年前、誰がこのような状況を想像できたであろうか。
しかし彼女がもっとも心を痛めたのは、次の事だろう。
つまり、それらの多くを行ったのは米兵ではなく、同じ日本人の手によって行われていたということだ。

むろん、誰もが心無い人であったわけではない。彼女を救おうと、中村虎猪市会議員をはじめ何人もの有志が活動を行った。 しかし終戦後、占領下と言う状況では、思うに進まないのも事実だった。

そんな中、一人の英国人が三笠を訪れた。貿易商ジョン・S・ルービン。彼はかつて、三笠の生まれ故郷である、イギリス、バーロー・イン・ファーネスで宝石商を営んでいた。
彼はまだ若い日、地元の造船所で建造された、名艦の誉れ高い三笠が、まだ保存されていると聞き、75才という老齢を押して横須賀を訪れていた。
しかし、期待に胸躍らせやって来た彼が出合ったのは、かつての面影なく、同胞の手により無残な姿とさせられた、三笠の姿だった。

彼は彼女の姿を見るや、愕然とし、そして憤慨した。彼は直ちに筆を走らせると、ジャパンタイムズに次のように投書した。

「何という日本人は忘恩の国民なのだ。戦いに敗れると対馬の英雄・東郷と三笠のことも忘れてしまったのか。神聖なる三笠が丸裸になり、ダンスホールや米兵相手の映画館になったのを黙ってみているのか。何たる日本人の無自覚であることか」

これが大きな反響を呼び、その後の復興運動の呼び水となった。
さらには、アメリカ海軍のニミッツ元帥が三笠の状況を憂いた一稿を文藝春秋に寄せ、その原稿料を保存運動に寄付するなど、これら多くの努力の結果、三笠は、1961年6月 "記念艦 三笠" として復興された。

三笠の復興には、かつて砲火ををかわした国の人々の大きな尽力があったのである。

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現在三笠は、かつての勇壮な姿を取り戻し、横須賀市の三笠公園にてその姿を見ることが出来る。
それは、多くの人々が先人達の勇気を忘れず、努力して取り戻した結果である。その事こそ、次の我々は忘れてはならない。


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