開戦から終戦まで、最前線に立ち続け、 常に無傷で帰ってくることから、奇跡の艦、幸運の艦と呼ばれた駆逐艦。
終戦まで生き残った彼女は、復員輸送に従事した後、賠償艦として中国に譲渡され、名を『丹陽』と改める。
その後、長らく中華民国海軍で旗艦を勤め、幾度かの砲火を潜り抜けた後、1966年一線を退く。
退役に際し、元雪風乗組員を中心とした返還運動がおこるも、それが実現しようとした矢先、彼女は解体され、台湾にてその生涯を閉じた。
原因は、老朽化、台風のため座礁浸水、実艦標的と諸説あり、有名艦にもかかわらず定かではない。
青天の霹靂といってよい、あまりにも急な最後。それは幸運艦雪風の、たった一つの不幸のように語られる。
しかしおそらく、これは彼女の望んだのものなのではないだろうか。
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気がつけば、彼女は一人戦場に立っていた。
姉妹たちが次々と傷付き命を落とす中、彼女は無傷で生き残った。
生き延びた事に、後悔はしていない。
多くの命を助けられたのだから。
しかし、心のどこかでは、彼女は思っていた。
一人生き残った事。
自分の居場所。
見送る寂しさ。
そして、姉や妹達と肩を並べ海原を駆けた日々。
乗組員の記録によれば、沖縄特攻作戦時、大和が沈んだ後も雪風は命令を無視し、一人沖縄に向けて進もうとしていたという。
しかしそれを聞いた大本営から、再び直々の命令が入り、やむなく引き返した、とある。
返還運動を聞いた時、きっと彼女は嬉しく思ったであろう。
共に戦った仲間達。もう会えないと思っていた。そして、忘れないでいてくれた。
彼らはきっと全力を尽くし、彼女を日本に返してくれるだろう。
そしてきっと、日本に帰った彼女は、記念艦として保存され
そして、
もう、沈む事も無く、
もう、姉妹達の元へ行く事もできず、
彼女は一人、
やがて、共に戦った仲間が、彼女を残し旅立って行く姿を、
見送らなければならない。
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軍艦として異例の約30年もの間、彼女は戦った。
一人生き残り故郷を離れ、日本海軍の栄光を守り通した。
戦艦の一割にも満たない小さな体で、彼女は十分すぎるほど戦い抜いた。
それは彼女の最初で最後の我が儘だったのかもしれない。
別れも告げず、異国の地で一人、その生涯を閉じる道を選んだ事は。
たとえ、その先が深く冷たい水底としても、
そこが最後に、彼女の帰りたかった場所なのだろう。
それが、多くの姉妹の最期を看取ってきた、彼女なりの選択だったのではないだろうか。
私達は、もう彼女に会う事はできない。
しかし、それは悲しむべき事ではない。きっと彼女は、今、姉妹達と共に在るであろうから。
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現在彼女の舵輪と主錨は、海上自衛隊江田島教育参考館に、スクリューは、台湾 高雄の三軍大学海軍官校、艦鐘は、
官校史績館で保管されている。
もしこれらを訪れることがあれば、私はきっと、こう声をかけるだろう。
「ご苦労様でした」と。